江戸時代は、政治の中心・江戸を基点として主要な地域を結んだ「五街道」が、陸上交通の主要幹線道路として幕府に統括されていました。その他の主な町へは、山陽道や美濃路などの脇街道が、在地大名の領主権力によって支配されていました。長崎街道も脇街道の一つでしたが、鎖国体制下の時代で、外国に開かれた唯一の窓「長崎」への街道だったため、監視も行き届き、よく整備・統括されていて、他の脇街道とは格差がありました。

当時の長崎街道は、豊前小倉宿を基点に、県内は彼杵→松原→大村→諌早→井樋ノ尾(多良見)→矢上→日見→長崎に至る経路でした。町内の長崎街道沿いからは、有明海や多良岳の連山、さらには大村湾を望むことができます。見晴らしのよい「御籠立場」や「峠茶屋」では、行列が籠を下ろし、景色を眺めながら一休みしたといわれています。

また、長崎街道を往来した人々の中には、長崎奉行や出島オランダ商館長とその医官であったシーボルト、そして蘭医の緒方洪庵・幕末の福沢諭吉勝海舟など、歴史的に主要な人物や後世の日本に大きな影響を与えた人たちがいました。

かつてはたくさんの人々が往来した長崎街道も、明治の頃から人きく変化し、現在では旧街道の昔の姿をあまり留めてはいません。その中でもわずかに残る道しるべの石標や、などの地名に今でも歴史の面影を偲ぶことができます。

 

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